- sakura-tokyo
#8 春休みの読書感想文
先日クローゼットの入れ替えのため、コットン製のシャツを出した際にふと思い出して数十年ぶりにw 読み直した短編小説の読書感想文です。
「オメラスから歩み去る人々」
作者はゲド戦記でお馴染みのアーシュラ・K・ル・グィンです。
「風の十二方位」という短編集の中の一編
久々に読み直したところ、なんとなく個人的に新しい気付きがありました。
この作品は作者本人による前文というか解説文というか・・・
それを除けば10ページ程度の短編なので、ネタバレしますがご容赦ください。
物語の語り部は、オメラスというユートピアについて詳細に語り始めます。
緑豊かな繁栄した国
ファンタジーで語られるような中世の豊かな国のような説明をしつつも、昔の話ではなく現代科学の利便性をもっている可能性も語り添えます。
豊かな国に住む善良で幸せな人々
ただの善良さだけではなく、そこには他人の痛みを知る複雑さも持ち合わせていることも重ねて語られます。
上記を細かなエピソードと共に語りつつ、ハードとソフトが両立することで成立するユートピアを印象付けた後に、この国のもつ深い闇についても語ってゆきます。
このユートピアはひとりの子供の犠牲の上に成り立っている
この国のどこかの地下室、もしくは穴倉にはひとりの知的障害の子供が汚物にまみれて幽閉されています。最低限の食事、不潔なままの身体、優しい言葉のひとつも掛けられない。
この状態を維持することによってこのユートピアは成立しています。
この国の住人はこの事実を知っています。
子供たちにもある年齢になるとこの事実を知らせ、場合によっては見学までさせます。
事実を知った子供たちは、例外なく何日かふさぎ込みます。
年若い見物人たちは例外なくそこに見たものに衝撃を受け、気分が悪くなる。彼らは、これまで自分たちには縁がないと思い込んでいた嘔吐をもよおす。どう説明されても、やはり彼らは怒りと、憤ろしさと、無力さを感じる。その子のために、何かをしてやりたい。だが、彼らにできることはなにもない。もしその子をこの不潔な場所から日なたへ連れだしてやることができたら、もしその子の体を洗いきよめ、おなかいっぱい食べさせ、慰めてやることができたら、どんなにかいいだろう。だが、もしそうしたがさいご、その日その刻のうちに、オメラスのすべての繁栄と美と喜びは枯れしぼみ、ほろび去ってしまうのだ。それが契約の条件である。
やがて彼らは折り合いをつけ、自由という不自由さを知り、痛みと後ろめたさを抱えつつも、善良な人間として生きることを選択します。
そして語り部はつづけます。
子供を見に行った少年少女のだれか、またはもっと年をとった男女のだれかが、数日ふさぎ込んだ後、誰にも告げずオメラスを去ることを
彼らの向かう土地は想像することも難しい場所らしいのですが、北や西、それぞれに向かう先の山々を目指して歩き去るとして物語は終わります。
寓話なのでシンプルに対比させて読者にゆだねて終わります。
僕なんかがこの短編小説を思い出すくらいなので、そういう世情になっているのでしょう。
照らし合わせて何かを語るとか、分不相応なことを書くつもりはありません。
以前も思ったのですが知的障害の子供はあくまでもアイコンであって、それの是非を問うことに意味は無いと思っています。
功利主義に走りすぎないための楔であって、どこかに存在し続けるもの。
オメラスの人々のように胸に刻み、そして自分の手の届く範囲で逃げずに対処する。
久々に読んで気が付いたのですが、契約が破られたら災厄に襲われるとは語られていませんでした。繁栄と美と喜びは枯れしぼみ、ほろび去るとは語られていますが、災厄が襲い掛かり不幸に苦しむとは語られていません。
そしてオメラスを去る人々が向かうのは山々です。
ステレオタイプの幸福に浴し続けることが本当の幸福なのかという疑問を想起させます。
不幸は現在進行形で感じることは容易です。
幸福はたとえ現在進行形で感じていたとしても不安感は残ります。
殆どはあの時は幸福だったと過去形で感じるのではないでしょうか?
幸福のかたちはそれぞれです。
オメラスの人々が感じている幸福感とは本当の幸福なのでしょうか?
歩み去る人々には他人の選択や幸福感に口を出さない思慮深さがあります。
彼らはぬるま湯の幸福感より「希望」とまではいえなくても、不安と表裏一体の「可能性」を目指してそれぞれの山々に向かったと感じられます。
閉じ込められた子供に目が行きがちなこの短編小説ですが、思慮深い罪悪感を抱え、不安感を持ちながら、可能性を信じて山々に向かって歩み始める全ての人々に対するエールのようにも感じられました。
もちろん翻訳でしか読んでいないのでそこはご容赦くださいw
文責
桜栗英人